2011年11月 18日 前夜式、19日 告別式にて

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告別式

国分寺バプテスト教会 牧師 米内宏明

ご挨拶


本日、荒井恵理也さんの葬儀告別式を司式させていただきます私は、荒井恵理也さんと四季さんご家族が集っています国分寺バプテスト教会牧師の米内宏明と申します。

式に先立ちまして、所属教会の牧師として皆様方に対し、荒井恵理也さんを公私にわたってお支え下さいましたことへのお礼を申し上げます。

ではただいまより、聖書の教えに従い、恵理也さんと四季さんの信仰に基づいて、荒井恵理也さんの告別式を執り行います。

人の死と生を司る主の主権の元に、恵理也さんが待ち望んでいた永遠の希望を私どもも待ち望むときといたしましょう。


聖書


【 新約聖書 ヘブル人への手紙 11章 13〜16節 】

この聖書箇所から、「神への信頼」、「遙かにそれを見て」、「告別」と心を進めて参りましょう。


〜 神への信頼 〜

恵理也さんが書き残して下さった文章には、人生や信仰についてのものが数多くあります。

hi-b.a.60周年記念誌の「高校生世代に福音を伝える」の中に収録されています「hi-b.a.基本理念」もその一つです。この理念は、恵理也さんが何年もかけて取り組んできたものでもあったと伺っています。

しかし、そのページ数で言うならば、この記念誌の中のわずか10ページほどにしかなりません。170ページあまりの記念誌の中の10ページです。分量にすれば全体の17分の1にしかなりません。残りのほとんどは、吉枝さんによるジョークを交えたhi-b.a.の歴史で、読み応えがあります。しかし、それに負けない内容と確固たる信念がここにはあります。彼の全生涯の信仰の姿勢がここに十分に示されていると言ってもよいでしょう。是非お買い求めになり、お読み下さい。

その冒頭にこうあります。
「神に信頼する。神に信頼することがhi-b.a.に与えられた神の祝福である。それゆえhi-b.a.は神に信頼することをもっとも価値あるものとし、それをおこなうことを責務とする。・・・」(P.162)

私はこれを読んで改めて思いました。
「ああ、恵理也くんはこれを生きてきたんだ」と。

彼はhi-b.a.の理念を身をもって生きて見せ、どんなときにも神に信頼するというのはこういうことなんだよ。信頼できる神さまなんだから、こういうふうに信じていい方なんだよ、と私たちに示してくれていたんだと。

もう一度、病症での恵理也さんのエピソードをご紹介します。

恵理也さんは奥様の四季さんにこう言ったそうです。

「神様は、この病気を癒すことができる方だと信じている。癒されたいとも願っている。でもその結果が生きることじゃなかったとしても、喜べる?」と。

さらに、「『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(伝道者の書 3章11節)とあるように、もし神様が癒されなかったとしても、それが四季ちゃんにとっても、神様にとっても、美しいこと、善いこととして喜ぶんだよ」と。それは最愛の奥様の四季さんを気遣いながらのことばでした。

四季さんは、それまでの多くの葛藤を経て、やっと神さまに「えりやくんをよろしくお願いします」と祈ることができた後でしたので、「私は喜べるよ」と答えたそうです。そして、「恵理也くん、言葉を返すようだけれど、それは恵理也くんにとっても善いことなんだよ」と言うと、「ありがとう」と彼は答えたそうです。

このような濃密な信仰の分かち合いをもって、お二人はそれぞれ相手を思いやり、相手を神様の美しい御手の時に委ねようとされていました。そしてお二人は、何よりも自分自身を主に委ねてこそ、神のなさる美しいことをお二人で一緒に受け止めていけることを確認しあったのです。 

恵理也さんの言葉です。

「病気が治らないことより、病気を通して主がお語りになろうとしていることを聞けないことのほうが辛い。」

神さまはどんなところからでも癒すことの出来るお方、その方のなされる最善に自分をささげます、と恵理也くんらしい、主へのぶれない献身の表明です。

そして四季さんも、そのときに、ことばに表せない、人知では計り知れない不思議な平安が与えられたと分かち合ってくれました。

恵理也さんも、四季さんも、それぞれが神さまの前に出て、生きるにしても死ぬにしても、主だけを頼り、主のなさる最善に一切を委ねる祈りをしたそうです。

その後の彼は痛みが増し、私がお見舞いに行っても、机にしがみつくほどの激痛の中で、「本当に、本当に、本当に(と三度繰り返して)、みなさんのお祈りに感謝をしています」とおっしゃいました。

彼のこの神への姿勢は、ぶれませんでした。

恵理也さんは、神を信じる生き方はこういうことなんだよと、身をもって証をして下さいました。特に高校生のみなさんにはそのことを本当に示したいと願っていたのです。

主を信頼することをもっとも価値のあることとした恵理也さんの闘病生活は、彼にしかできない礼拝そのものであり、主への愛と信頼であったと受け止めています。私どももその姿勢に襟を正されながら、神を信頼する人生を送って参りましょう。


〜 遙かにそれを見て 〜

恵理也さんは以前に「いのちのことば」誌に「永遠志向」というタイトルのエッセイを載せていました。二人のお子さんたちの名も、永遠と書く「とわ」そして「はるか」と名付けています。当初は別の名前にしようと考えていたようですが・・・。

とにかく彼の人生は常にここ(永遠)に焦点が当たっていました。

この永遠へのあこがれは、人を向かうべき方向にしっかりと向けます。さらに、これがないと満足しなくなります。

奥様の四季さんにはもちろんのこと、召される二日前には、大好きな子どもたちに対しても出ない声を振り絞って「ありがとう、大好きだよ」と既に動かない手を振るようにしてお別れをしました。

その子どもたちも今は、「パパは痛みから解放されて主の栄光の中に移されていること」を知っています。四季さんはいいます。「私と子どもたちにとって、恵理也さんの死は永遠の決別ではなく、パパは天国に生きていて、私たちはここにいるということが当たり前の家族として、今まで通り、いつもの通り、恵理也くんと一緒に神様を見上げていきたい」と。

四季さんは神様からの特別な経験をいただいて、この約束を確信しています。


〜 告別 〜

私たちは恵理也さんに一度、きちんと別れを告げなければなりません。

「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目をとめる。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリント人への手紙 第二 4章18節)とあります。

見えないものにこそ目をとめる、・・・。

見えないもの・・・

このことばを聖書は何度も繰り返します。聖書の登場人物たちもそうです。「エノクは・・・神に移されて見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル人への手紙 11章5節)。

復活されたイエスご自身も弟子たちが気づくと見えなくなり、さらに天に上げられて、「見えなくなった」(使徒の働き 1章9節)と書かれています。復活までされたのだったら、ず〜っと一緒にいたいと誰もが思ったでしょうに。

恵理也さんの身体は私たちの目の前から見えなくなります。エノクに重ねることがゆるされるならば、『恵理也は神に移されて見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。』となります。

恵理也さんはキリストのいのちの中に移されて見えなくなる、のです。キリストにあるいのちは、空間や時間や身体に収まらないのであって、なくなるのではありません。消え去るのでもありません。

見えなくなることは、彼が仰ぎ見ていた永遠の主と共にあることなのです。

私たちも、恵理也さんが待ち望んでいた永遠の希望を待ち望むものとして、主を見上げながらご一緒に歩んで参りましょう。

2011年11月19日(土)告別式
片倉キリストの教会にて