2011年11月 18日 前夜式、19日 告別式にて

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前夜式

国分寺バプテスト教会 牧師 米内宏明

ご挨拶


今晩、荒井恵理也さんの葬儀前夜式を司式させていただきます私は、荒井恵理也さんと四季さんご家族が集っています国分寺バプテスト教会牧師の米内宏明と申します。

式に先立ちまして、所属教会の牧師としてまず荒井恵理也さんを公私にわたってお支え下さり、闘病中もお祈り下さった皆様方にお礼を申し上げます。また、この場所をご提供下さいました「片倉キリストの教会」の佐藤牧師ご夫妻と皆様にこころより感謝を申し上げます。


では、ただいまより荒井恵理也さんの前夜式を執り行います。

今晩の式は、聖書の教えに従い、恵理也さんと四季さんの信仰に基づいて、執り行わせていただきます(創世記 48章29節〜、49章29節〜、50章1節〜、出エジプト記 13章19節、ヨシュア記 24章32節、マルコの福音書 14章8節)。

人の生と死を司る主の主権の元に、恵理也さんへの主の恵みを覚え、ご遺族とご会葬のお一人おひとりに主の慰めと天上の希望を望むときといたしましょう。

そして何よりも、恵理也さんが生涯に於いてもっとも大切にされていた主への礼拝姿勢にならい、私どももこの式をそのような礼拝のとき、恵理也さんとともに主を見上げる礼拝として、過ごして参りたいと願います。


恵理也さんを天に送って


荒井伊左久さま
(恵理也さんのおにいさま。恵理也さんは、お兄さんの伊左久さんが毎日のようにお見舞いに来て、とてもよくして下さると、本当に喜んでおられました)

中臺孝雄さま(おことばを別ページに載せています)
(日本長老教会西船橋キリスト教会牧師で、hi-b.a.の代表役員をしておられます。恵理也さんの上司であり、恵理也さんは、中臺先生がいらっしゃることは自分にとって信仰のおおきな支えであると、何度か私に話して聞かせて下さったことがありました)

上原雄平さま
(親友のお一人です。同じ八王子出身で、高校時代からの親友でいらっしゃいます。恵理也さんを公私にわたって支え続けて下さいました。)

Lyreのお二人
(恵理也さんが卒業された東京基督教大学の先輩であり、在学中から信仰のよきお交わりをいただきました。恵理也さんはLyreの曲を教会の礼拝でもよくリードしてくださいました)


式辞


聖書の言葉と、聖書の言葉に生きた恵理也さんがその身をもって残した証によって式辞と致します。

【 新約聖書 ローマ人への手紙 14章 7〜9節 】

恵理也さんは、ご自分が病気と分かって入院なさったとき、次の聖書の言葉を分かち合って下さいました。

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」
(ヨハネの福音書 11章4節)

彼は、この主のおことばをもって闘病生活を始めたと言ってもよいでしょう。

主はいやして下さるお方、そのお方を待ち望む、ということに始まった闘病生活は、「神の栄光を見る」という真の意味を恵理也さん自身のものとするための8ヶ月であったと、恵理也さんと四季さんのお姿を拝見して、そう私は受け止めています。

人は、大切な誰かを先に天に送り出すときに必ずといってよいほど後悔を感じるものです。「ああしておけばよかった」、「こうしてあげた方が良かったんじゃないか」、「自分がもっとこうだったら・・・」等々です。私も何度もそういうところを通って参りました。

しかし今回、恵理也さんを先に送った私の後悔はかき消されました。私の後悔など、主と恵理也さんとの確かな繋がりの前にはかき消されるほどのことでした。それは、その苦闘を通った者にしか結び得ない主との絆を、恵理也さん自身と四季さんがしっかりと結んでおられたことを私が知ったからです。

あるとき、恵理也さんは奥様の四季さんにこう言ったそうです。

「神様は、この病気を癒すことができる方だと信じている。癒されたいとも願っている。でもその結果が生きることじゃなかったとしても、喜べる?」と。

さらに、「『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(伝道者の書 3章11節)とあるように、もし神様が癒されなかったとしても、それが四季ちゃんにとっても、神様にとっても、美しいこと、善いこととして喜ぶんだよ」と、奥様の四季さんを気遣いながら言ったそうです。

四季さんは、それまでの多くの葛藤を経て、やっと神さまに「えりやくんをよろしくお願いします」と祈ることができた後でしたので、「私は喜べるよ」と答えられたそうです。そして、「恵理也くん、言葉を返すようだけれど、それは恵理也くんにとっても善いことなんだよ」と言うと、「ありがとう」と彼は口にしたそうです。

私はこのようなお二人の濃密な信仰の分かち合いと、それぞれがしっかりと主と向き合おうとしているその人生に、私などのような者の後悔や無念を口にして挟んで、自らの後悔に彼らを引きずり込んではならないと自らを戒めました。

お二人は、それぞれ相手を思いやり、神様の美しい御手の時に委ねようとされていました。しかし、同時に自分自身を主に委ねてこそ、神のなさる美しいことをお二人が一緒に受け止めていけることを確認しあっていたのです。

恵理也さんの言葉です。
「病気が治らないことより、病気を通して主がお語りになろうとしていることを聞けないことのほうが辛い。」

恵理也さんも、四季さんも、それぞれが神さまの前に出て、生きるにしても死ぬにしても、主だけを頼り、主のなさる最善に一切を委ねる祈りをしたそうです。

神さまはどんなところからでも癒すことの出来るお方。そのお方のなさる最善に自分をささげます、と。恵理也くんらしい、主へのぶれない献身の表明でした。

そして四季さんも、そのときに、ことばに表せない、人知では計り知れない不思議な平安が与えられたと分かち合ってくれました。

この8ヶ月、たとい取り去られたとしても、生かされたとしても、主は繰り返し、主を待ち望むようにとの約束をもって恵理也さんを支え続けてきてくださいました。

その確信は、生きる望みを捨てるということでもなく、死ぬことを考えないで闘うということでもなく、生きること、死ぬことを越えた恵理也くんらしい礼拝、神さまへの信頼と愛の表現だと思いました。

その後、痛みは増し、苦しみの中から抜けられなかったけれども、この主の御手の中にあって痛み、このお方の御手の中にあって苦しみ、彼は一つ一つを整理していきました。

病院の中で彼ほどベッドまわりが一番整理されている人はいなかった、という評判を看護師さんたちから聞きました。確かに病院を出るときにも、片付けは不要なほどでした。

そんな彼ですから、四季さんとも、二人のお子さんとも、声を絞るようにして、でもしっかりと「ありがとう、大好きだよ」と伝え、子どもたちも「お父さん、ありがとう」とちゃんとお別れをしました。

彼が信頼をしていました主治医の先生にも「延命処置は受けません。以上」と、話す体力が残っていないにも関わらず、目をしっかりと開き、表明なさいました。

私がお見舞いに行くと、机にしがみつくほどの激痛の中で、「本当に、本当に、本当にみなさんのお祈りに感謝をしています」とおっしゃいました。

彼のこの神への姿勢は、ぶれませんでした。

恵理也さんは、神を信じる生き方はこういうことなんだよと、身をもって証をして下さっているようでした。特に高校生のみなさんにはそのことを本当に示したいと願っていたのです。

「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(ヘブル人への手紙 11章4節)の通りに、恵理也さんはその身をもって証し続けて下さっています。この葬儀祭壇の中央に彼の写真を置いているのは、この葬儀の説教者は恵理也さん自身だということを示しているからです。ですから、私たちは自分の悲しみや後悔にこころを騒がせるだけではなく、彼の証にまず耳を傾けるべきです。

だからこそ申し上げるのです。「彼の死を残念だった」と言わないでほしいのです。彼はそう言われることを願っていません。

もちろん、私たちは涙がつきません。寂しさは消えません。後悔も後から後から出てきます。しかし、彼は自分の人生を全力で全うしたのです。

ローマ人への手紙 14章7節 〜(文語訳で)

『我等のうち己のために生ける者なく、己のために死ぬる者なし。
 われら生くるも主のために生き、死ぬるも主のために死ぬ。
 されば生くるも死ぬるも我等は主のものなり。
 それキリストの 死にて、また生き給ひしは、
 死にたる者と生ける者との主とならんためなり。』

恵理也さんにとっての主となるために、キリストは十字架に死んで、また生きられたのです。これほどのことはキリストしかおできになりません。死と生を同時にその手の中に収める(治める)ことができるのはキリストだけです。恵理也さんの死を死んで、そのいのちとなって下さったこのお方と恵理也さんとの間に、私ども人間は割り込むことはできないのです。

そして主は仰せになります。

「主いひ給ふ。我は生くるなり。
 凡(すべ)ての膝はわが前にかがみ、
 凡ての舌は神をほめたたえん、とあり。
 我等はおのおの神の前に己のことを陳(の)ぶべし。」

恵理也さんと四季さんが闘病生活の始まりに握った「信じるなら神の栄光を見る」(ヨハネの福音書 11章40節)の約束は、お二人に、そしてお子さんたちにその後はっきりと分かる方法で、奇跡的な不思議なあり方で成就したことを伺いました。

それは、四季さんにとって今や夫が、子どもたちにとってはパパが、これまでの激しい痛みから解放されて主の栄光の中にいることが、はっきりと分かるように示されました。(これは私などが口にしない方がいいので、語りません)。

ですから四季さんは、今まで通り、いつもの通り、恵理也さんと一緒に主を見上げて、美しいことをなさる神様を喜んで生きていきたい、と願っています。

恵理也さんの主への礼拝と信仰を想うとき、私どもも同じ約束を見せて下さる主の恵みにひれ伏したく願うのです。

2011年11月18日(金)前夜式
片倉キリストの教会にて