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国分寺バプテスト教会牧師

米内 宏明

「正直な敗北」という奇妙なことばを聞いたことがあります。敗北に正直も、うそもあるものかと思ってしまうのですが、意外と私たちは敗北を正直に認めたがらないものです。

最近の新聞にこういう記事がありました。

「日本を代表する二人のプロが同時期に話題を提供している。M.O.プロと中嶋常幸プロ。どちらも日本のプロゴルフ史上に残る燦然たる偉業を成し遂げたことでは、他の追随を許さない。しかし、実績はともかくその生き方はあまりにも対照的だ。強さと裏腹にO.プロはこれまでずい分世間を騒がしてきた。強さゆえに『裸の王様』になり、身の破綻につながった。一方の中嶋プロは、1980年にクリスチャンになり、以後人生観が変わった。『人間は一人で生きているのではない』と、公人として身を慎むようになった。ルール、マナーに気を配り、社会への影響力を意識した。アメリカ・ツアーでは、ルールミスを自己申告し、『日本にも、こんな正直なプロがいる』と、賞賛された。7年間の大スランプを経て、『奇跡の復活』といわれた。昨年、日本シニアオープンに初参加し、その賞金全額を『新潟中越地震』の被災地へ寄付している。『誰が見ていなくても、神様は見ている。結果が問題ではない。自分がどう生きるか、そのプロセスこそが大切』と、いつも淡々とプレーする。」
(フジサンケイ新聞11月14日)

私はこれが「正直な敗北」ということではないのかなと思いました。正直に負ける。これには勇気が要りますね。勝つよりも強い精神力がいるのではないかと思います。

私はどちらかというとすぐに試合を投げ出したくなる方なのです。ちょっとミスしたり、ちょっと思ったところへボールがいかなかったりすると、すぐにもうやめた、みたいな(ゴルフでいえば、スコアなんかどうでもよくなる)んですね。それは、自分の本当の実力を見たくないので、現実から逃げているわけです。でも、実に立派なプレーヤーというのは、自分の成績がどうしようもなく悪いときでも、最後まで誠実に黙々とプレーして、自分の本当の姿を直視するのですね。

それで、どうしてこんな話をするかと言いますと、こういった多くの方々の背景にイエスキリストへの信仰があるからなのです。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いする日ですが、クリスマスの出来事を紀元前8世紀ほどに活躍した預言者イザヤが預言で、そのクリスマスの意味を伝えているのです。クリスマスには必ずと言ってよいくらい読まれる箇所です。

クリスマスは、「クリスマスおめでとう」「メリークリスマス」って言い合うものですが、実のところ、このおめでとうは神様からあなたへ向かって語られたお祝い、祝福のことばなんですね。どういう意味か、ということをイザヤが語っています。それが 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」の中に込められています。

 「エッサイの根株から新芽が生え、
      その根から若枝が出て実を結ぶ。」
               イザヤ11章1節

「エッサイの根株から」ということに示される救い主キリストの誕生秘話が、私たちへのおめでとうになること、です。

まず一つ目に、エッサイとは、ダビデの父親の名前です。息子ダビデは有名な王様。一方、エッサイはそうでもない。一介の羊飼いに過ぎません。

どうせ何かを知らせるために、誰かの名前を使うなら、有名な人のほうを使うでしょう。こんな人と関係があるんだぞ、って言いたいですからね。そういう有名人の名前を利用した方が、みんなの興味を引いて、たくさんの人たちにアピールしやすいでしょう。ですから、「救い主キリストは、神が人となってあの有名なダビデの子孫から生まれる」というのが、当然の期待だったのです。ところが、神さまはイザヤを通じて、「ダビデの」とは言わないで、その父親である「エッサイの」と言っているのです。

ベツレヘムで羊飼いをしていたエッサイという男。当時のイスラエルにおいては、羊飼いというのは決して社会的に立派と言われるような仕事ではありませんでした。羊と一緒に寝起きしていますから、臭いにおいはするし、体は汚れているし、命がけの仕事だということで、なかなかなり手のなかった職業です。

つまり、エッサイという名前を聞いて、「おお、あのエッサイか」というふうにびっくりするとか感動するという人などはなく、せいぜいご近所の人だけがその名を知っている程度で、社会全体へのアピール力などは全くなかったのです。

もし、「ダビデの根株から救い主が出た」と言えば「ああ、あの立派なダビデ王の子孫から救い主が出たのか」ということになるわけでしょうけれども、「エッサイの根株から」などと言われましても、人を感心させるような人物ではなかったのですね。そういうエッサイから救い主が生まれるのだと、神はイザヤを通してわざわざ語っているのです。

さらに、「エッサイの子」という言い方は、それはダビデが軽蔑されているところで使われています。「あの田舎者エッサイの子倅が」というような軽蔑を込めた呼び名ですね。父親の名前をそんな風に使われて、自分が馬鹿にされることほど辛いことはなかったでしょう!

このように、「エッサイの根株から」と言った場合、どう転んでも、よい意味は伝わらないのです。こういうわけで、「エッサイ」という人物の名前から知られる“救い主キリスト”の姿というのは、この世の名声も、富も、業績もないところから、むしろ軽蔑の中から生まれるということなのです。

イエス・キリストという神の子、救い主の誕生は、立派な血筋や、社会的な地位とか評判や、金銭的な成功からではないのであれば、そのようなものの何一つない、いやむしろ人々から軽蔑されるような状態からでも、私たちに救いがもたらされ得るのだ、ということを力強く語っているのです。

二つ目に、「根株」ということばに目を移してみましょう。どうしてこんなところに「根株」が出てくるのか。聖書は面白いですねぇ。救い主の誕生を預言するのに、末裔、子孫、後継者、お世継ぎ、などとは表現しないで、根株ですよ。この根株といいますのは当時の時代背景をもとに使われています。

紀元前740年から34年ごろ、アッシリヤ帝国がどんどん強大になって、北イスラエル王国は滅ぼされてしまうという、民族存亡の危機だったのです。

外国の大軍がまるで林をなぎ倒すようにして町々を破壊し、焼き尽くす。もうそこには何も残らないまでになる。その嵐のような破壊と略奪が去って、森がし〜んと静まり返った時に、残っていたのがこの根株です。 ですから、この「根株」という言葉は、絶望、死、悲しみ、敗北・・・・を意味していました。

ところがです。一本の切り株に目を注ぐようにと神は私たちを導くのです。焼けこげて、もう生命さえもないように見えるその切り株に、その切り株から新芽が生え、若枝が伸びて、何と実を結ぶまでになるのだというのです。

誰もが絶望している中に、誰もが期待もしない中から救いが現れるのです。もう何の命も、希望もないだろうと人の目には見えるものから、神の救いは始まるのだということです。

そして、さらにこの「根株」という言葉は、救い主キリストが大木としてではなく、根株から出る芽としてこの世界に来られるということを気づかせます。大木ならば、みんなが見上げる対象で、すぐに目に留まりますでしょう。ですけれども、根株は誰もが気づくものではありません。見上げるのではなく、子どもでさえも見下ろすものです。救い主は人々が見下ろすような新芽として、赤ちゃんとして、この世に生まれるということによって、その誕生を表しています。

クリスマスによく読まれるイエス誕生物語。救い主が赤ちゃんとして生まれるという物語です。まさに「新芽としての誕生」ですね。救い主は誰かの世話にならなければ生きていけない存在としてこの世に生まれました。誰も目に留めない家畜小屋で、飼い葉おけに寝かせられる姿で。「こんな黒焦げの根株から何が始まるだろうか」と誰しもが思うように、「こんな家畜小屋から何が生まれようか」と誰しもが思うようなところから、救いのわざが始まったのでした。

救い主キリストの誕生は、誰も何も期待しない、何も希望の光が見えないものからの誕生でした。実は、その「誰も何も期待しないもの」、「エッサイ」、「黒焦げの根株」という中には、私自身も入るのです。

たとえ誰もが自分に期待しなくても、たとえ自分自身でさえ自分に期待できないような状況に陥っていたとしても、そこに焼け焦げた根株から新芽が出るような希望を依然として抱き、光を見出せるのです。そこに可能性を読み取れるのです。 焼け焦げた根株から何と新芽が出る。新芽が出るだけじゃなくてその芽が枝となって成長する。そして実を結ぶまでになる。見せ掛けの自分で繕う勝利ではなく、あなたの人生が(たとえ負けていても)この方と共にあることで、大胆に希望を持てることこそ、本当のクリスマスの喜びなのだと、イザヤの預言は語ってくれているのです。

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」

それこそが本当のクリスマス・メッセージ。「クリスマスおめでとう!あなたにメリークリスマス!」なのです。

 
 
 

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